一人になりたい時というものがある。そういう時のために自分だけの気に入りの場所があれば、この、数字主義、結果主義で情緒が腐敗して、実際嗅いだことはないが群れに適応できなかった弱いくせに攻撃的な雄ゴリラの前頭葉の臭いみたいな悪臭を放つ、どうにも疲れる現代社会を生き抜くために少しは有益だ。
私は農薬を食べて死んだ動物の色に曇った曇天の下、西武線の小さな駅に電車を下り、私の馴染みの《カーネス》と云う喫茶店へ歩いて行った。この喫茶店は近年あらゆる街に幅を利かせているフランチャイズ展開系の喫茶ではなく、昭和の昔から雰囲気をそのままに営業を続けている、古風な椅子や机の穏やかな雰囲気が落ち着く、畢竟洒落た個人経営の喫茶店なのであった。しかも恐らく昭和のはるか昔にこの店を創業したマスターは健在であり、年齢はもう九十近いと見え、すっかり頭も禿げ上がっているものの、元気な老人特有の晴れやかな微笑に我々客を迎えてくれる。
私はいつも通り隅の丸卓へ疲れた腰を、荷物でも置くようにおろし、この店で私の最も気に入りの「セイロン風ミルク・ティ」を注文すると、次に雑誌へ書くエッセーの事を考えたりした。私のスマート・フォンのメモ機能へ何かの折にストックしてあるテーマは豊富だった。しかしメモをしたときには確かに面白いと感じたはずのテーマ達は、冷静に確認してみると寂れた公園の遊具のように何か陰鬱で頼りない感じを与えるものばかりだった。その上わずか数点の目を引くメモでさえ、たいていは下ネタなのだった。
私はため息を吐き、木造りの枠に囲まれたこの昭和の喫茶店の窓から、ぼんやりと曇天の下を眺めた。人々は快活そうだったり、または退屈そうだったり、一人だったり、寄り添って手をつないだりしていた、そして忙しそうに、眉をしかめながら、またはうきうきしながら、ゆっくりと、或いは足早に、右から左からひっきりなしに私の前を通り過ぎていった。私はこういう人々の一見ランダムな個々の動きの全体を、何か得体の解らない法則の支配しているような気がして、根本のところを知らないまま生きている恐怖を感じた。
「セイロン風ミルク・ティでございます」
そこへ私の丸卓へ、この喫茶店のマスターの孫らしい女性が私の注文を届けに来てくれた。彼女は長い黒髪の美しい、若々しくも控えめで全体的に品のある印象だった。私は憂鬱な気分を紛らわすために、思い切ってこの女性店員へ話しかけてみることにした。
「マスターのお孫さんなんですか?」
「ええ、そうですよ。お店を手伝っているんです。もうおじいちゃんも年だし。ところでお客様はいつもセイロン風ミルク・ティですね」
「美味しいんですよね、これ。セイロン風と云うのはスリランカのことですよね?」
「――あら、あたし知らない。ちよっとおじいちゃんに聞いてみますね」
こう言い残すとマスターの孫は皿を拭いているマスターのもとへそそくさと歩み寄り、一言三言小声に交したと思うと、また髪を揺らしながら私の丸卓へ戻って来た。
「知らないのですって」
「え、マスターも?」
「ええ。なんだか可笑しいわね。作っている本人が知らないだなんて」
私はこの娘のいかにも可笑しいと云う風に笑うのに何か安らぎを感じ、元気を取り戻した上、ますますこの喫茶店《カーネス》を愛し始めた。存外、物事を長く続ける秘訣は、こだわっていると見せかけて実は適当にやっている――こう云うことなのかも知れない。私はスマート・フォンのメモ機能へそのようなことを打ち込むと、エッセーのテーマが見つかったことに安堵して、ゆったりと何風だか分からないミルク・ティをすすった。
(了)
令和7年6月