職場では余裕がなく、どこか怯えたような雰囲気の杉浦さんは親しくなってみると意外にも毒舌や品性の欠けた内容を無遠慮に話したりするタイプだった。
「あなたは観覧車を次の人へ引き継ぐ際、屁を噴霧してから降りる?」
運ばれてきた抹茶カステラに載った、この店の特徴である、ドリル型にやたら細長く尖った生クリームをフォークの裏にならしながら杉浦さんは探るような目つきをよこした。土曜の【甘味処 葉】は店外に待ちが出るほど混んでいた。わたしの注文した黒蜜きなこアイスはまだ制作中らしかった。
「いや絶対しない」
「エレベーターでは?屁を噴霧してから降りる?」
「しないよ」
「そうだよね。素人でも分かる。でも菊池は、きっと、噴霧すると思う。あの人はそういう人」
わたしは無意味に店の壁にかかった悩ましい顔で斜めに傾いてヨットに乗る白人男子の絵を眺めたりした。菊池さんというのはわたし達が派遣されている会社のベテラン社員で、後輩や派遣社員に対して、仕事のやり方や新しい情報を自分のところで止めて教えないくせに、聞きに来た者を「そんなことも知らないの」と嘲笑ったり見下したりする大変意地悪な女で、一方上司に対しては露骨に親切で人当たり良く、仕事の出来る風体をアピールし、良い年齢をしてぶりっ子の埒であった。杉浦さんは職場ではこのお局の菊池さんから雑用や面倒な仕事をかなり流されていたが、不服らしい感情は顔に出さずに何でも引き受けていた。しかし菊池、と呼び捨てるということは、内心では相当、嫌っているのだな、思った。
「恐ろしい。覚悟もなく、軽やかに、内緒で、悪いことして、怪盗か何かのように、すまし顔で去って行く……」
「何の話?」
「だから屁、置き屁の話」
「置き屁?」
そこへわたしの黒蜜きなこアイスが運ばれてきた。和風の制服を着た店員さんは柑橘の髪飾りを付けた黒髪を細い首元へ垂らした、水や夜風のように涼し気な品の良い女性であった。わたしはこういう美人を見ると劣等感を刺激され、恥を催した。どんなに〈見た目〉を良くしようと頑張っても、わたしは肩幅があって似合う服が限られたし、致命的には少し開けると歯茎の6割が見える口をしており、コロナ・ウィルスの落ち着いた今も感染予防のためではなく口を隠すためにマスクを付け、しゃべったり何か食べる際には手で口元を見えないように覆った。それは小学のときにくもん式で好きだった男子にからかわれたときから始まって、今ではもう自分で意図してやっているというより危険から身を守る反射の動きのようになっている。
「写真撮るの忘れた、ドリル型生クリームの写真、撮るの忘れた。エックスに上げようと思っていたのに」
杉浦さんは職場と違って声が大きく、脚を組んで堂々としていて、自然体でくつろいでいるように見える。
「エックスやっているんだ?」
「やっているやっている、これ、この前、評判がよかったやつ」
杉浦さんは走るげっ歯類のような素早い手捌きでスマート・フォンの画面をスクロールし、わたしに画像を見せてくれた。
「冷麺?え、盛岡まで行ったの?」
「行った行った、盛岡まで行った」
「冷麺食べるために?」
「いやいや、違うよ、素人でも分かる」
素人でも分かる、と杉浦さんはよく言った。口癖らしかった。「家庭が上手く行ってないんじゃない?」というのもよく口にした。
「パワー・スポットがあって、そこへ行ったついでに冷麺食べて来たわけ」
「ええ、一人で行ったの?」
「盛岡なんて、素人素人。徳島の秘境へ行ったことだってあるよ。川島さん、すだち君って知っている?あらゆるご当地マスコットの元祖で――」
「待って杉浦さん……フォロワー、5万人?すごい」
眼鏡の奥の細い目が得意げに笑ってこちらを見ていた。職場の杉浦さんと違う、わたしとも違う、自信満々で、生き生きしてる。
「今日、ちょっと行ってみる?」
「どこへ?」
「パワー・スポット。西武線でさっと行けるとこ、ある。とんでもないのが、何か、住宅街の中に、どーんと、あるんだよ。所沢から特急ラビュー乗っちゃった方が楽かな。秩父だよ」
ところで、杉浦さんもたぶん化粧などを頑張ってはいるのだが垢抜けなかった。身体全体のバランスが悪く、何か土偶のような印象で背が低く臀部の辺りが左右に出っ張っており、ショート・デニムを履いているのだが少しも似合っていない。わたしと同じような劣等感が杉浦さんにもあるのかどうか ちょっと 分からない。たいへん堂々としたように見える一方、どこか目が合いにくい感じはある。また、職場では余裕がないように見えるが、それは仕事とプライベートできちっと態度を分けているだけなのかもしれない。
そもそもわたしはこういうコンプレックスの類の話を人にしたことがない。存在そのものが傷のような、このいたるところからやって来る苦しさをいちいちまともに感じていたら日常生活に支障が出るだろうから――だってそれは わたしが人として落第している ということを刃物のように告げてくるわけだから――自分自身、何とか見ないように触れないようにしているところがある。
「ラビュー乗ってみたいかも」
「何」
「ラビュー、乗ってみたい」
歯茎が出るのを気にして口をあまり大きく開かないわたしはよく聞き返される。わたしは実は、期待していた。何かが変わるのかも知れない、けれどもそういう気持ちを悟られたくなかった、それでパワー・スポットに行ってみたい、というよりも特急に乗ってみたいから行くというようなニュアンスを出した。
会計は先ほど注文を持ってきてくれた美人の店員だった。わたしは気おくれして伏し目がちになってしまう。白くて長い指先に濃いブルーのネイルが施されていた。
「ペイペイで」
「何ですか?」
「ペイペイ……」
「申し訳ございません、ペイペイは対応しておりません」
わたしは無言で財布から交通系の電子マネー・カードを出した。端末へタッチすると、残高が足りず、慌て過ぎて財布を逆さまにしてしまい小銭をそこらへばらまいた。あらゆる目、壁にかかったヨット乗りの絵画の目さえ冷ややかにわたしを嘲笑しているように感じた。大丈夫?と杉浦さんが一緒に拾ってくれた。いっしょにいても わたしの劣等感を刺激しないし やさしくて、肌触りのよいシーツみたいな人だ、思った。
→『開花の権利』2