『墓地』3/4

ガス会社の訪問が西川を起こした。開栓の立会いを求められた。床に寝た背中や腕が痺れて痛み、頭は湿った砂でも詰め込まれたかのように鈍った。

業者は目の細い中年の女性であった。化粧の濃いために首と顔で肌の色や質感が全く違い、別々の人間の体と頭をつなげたかに見えた。西川は痛む腕を抑え、苦痛に顔を歪めて迎えた。女は無言で部屋に入ると背を向けて淡々とガス機器の点検を始めた。西川は混沌とする意識にその後姿を見ていた。

「給湯器の音、確認お願いします」

「何ですか」

「給湯器の音」

言うと女は壁の給湯器のスイッチを入れた。連続で舌を鳴らすような音がした。繰り返し、女は給湯器のスイッチを切ったり入れたりして西川に音を聞かせた。そして、特に何も言わず、ガスコンロの方へ歩いて行った。オーケーだったのかな、分からないな、西川が困惑していると、

「――大丈夫ですか」

業者は点火したコンロの火を弱火や強火にいじりながら唐突に聞いてきた。ガスのことかと思った西川は、「大丈夫そうですね」と答えた。

「いえ、この部屋ですよ――大丈夫ですか。すぐに人が引っ越していく」

西川が驚いて黙っていると、

「終わりました」

言って業者は出て行ってしまった。西川はガスが通ったのでシャワーを浴びると、床に開きっぱなしになっているノート・パソコンや、そこらに放ってあった『京極源Ⅰ』を片付け、残った引越し荷物の整理を始めた。

墓地は今日も陽の光の下に静かだった。向こうが透けそうな幽かな色の月が空に残っている。千切ったような形の雲もあった。不思議と恐怖は無い――昨夜の出来事を経ても不思議と西川に恐怖は無かった。それはイザワトクノリの間を置いた断続的な現れ方や、話す必死さとか、内容が誠実だったためかも知れない。『しゃがみ顎』の方が怖いくらいだ。それにしても、すぐそこの墓ではなくて、岐阜県の墓の霊が出るなんて、どういうことなの。今になって可笑しみがこみ上げてきた。

蟹を買わなきゃな、整頓作業をしながらふと頭に思い浮かんだ。どこに売っている、築地? 西川の出身地の青森では、町へ出れば生鮮市場などがあり、春に陸奥湾で獲れるトゲクリガニというのが有名だった。が、これはおそらく全国的なものではないだろう、岐阜に送るのならば、やはりメジャーどころのズワイ、タラバ、毛ガニのどれかが良いのではないかと思われた。

ネットで調べてみると蟹の相場は無論高く、カナダ産或いはロシア産のもの、或いは脚だけならばそれほどでもなかったが、日本で獲れるものでまるまる姿一杯は西川のバイト代をいい具合に圧迫した。殊にタラバガニは論外なくらい高価であった。通販で買うのは現物を見られない不安もあった。まだ10時半か。西川は思い切って築地へ出かけてみることにした。電車の乗換えは1度で済むようだった。駅のホームは『しゃがみ顎』を思い出させて嫌な気持ちがし、誰か線路に身を乗り出しはしないかと不安で西川は辺りを見回したりした。

容易にこれだという蟹は見つからなかった。あまりに高額だったり、手頃な値段でも脚がやせ細った貧相な蟹だったりした。築地の店を3店舗も回って、西川はやっとハサミや脚のはち切れんばかりに丸々と肥えた見栄えの良い堂々たる毛ガニを相応の値段に発見し、イザワユキコ宛に発送手続きをした。発送主の住所は送り先と同じものを書き、名前はイザワトクノリとした。電話番号はかなり迷った。

「何かあったときのために、届け先か、お兄さんの番号か、どちらかだけでも書いといてもらわないと」

緑色のキャップ帽をかぶった店主はこの時代に耳に短い鉛筆をひっかけていた。鉛筆の側面には金色の文字で《technical》と彫られていた。帽子の前面には《My Home》と印字されていた。でたらめを書くわけにもいかず、西川は自分の電話番号を書いた。ともかく蟹の件は片付いた。俺、いったい何に金を使っているんだ、思いながらも西川は妙に満足していた。

そのまま帰宅せずバイトへ向かう。西川は中規模なショッピング・モール内の洒落た文具屋の店員だった。輸入品のノートなどは革カバーでもないのに二千円近くもした。しかしコンスタントに売れた。こうしたものが売れるのは西川にはよくわからなかった。10万円もする万年筆も売れた。10万円のペンを買うなんて考えられないことであった。いや、存在するかも分からない女性に蟹を買う方がどうかしている。西川は苦笑した。「ほんとにあの住所にイザワユキコという人が住んでいるのだろうか」と今更訝しがった。しかし昨夜あれほど生々しい体験をして蟹を送らないというのも彼の中ではありえなかった。

「はあ、しんど、しんど」

シフトは若いのに四六時中溜息と愚痴ばかり出る女といっしょだった。

「どうしたの」

「はあ、もう嫌だ、答えるのもしんどい」

閉店作業を終え、都営電車に乗ってようやく帰宅すると深い疲労を追い払うために西川は夜にも関わらずコーヒーを飲んだ。墓地は街灯の明かりで道に近い側が淡く照らされていた。月は無い。カーテンを買わないとな、思った。そのときであった。

「そこの墓地ではなく、わたしは、西東京市の墓地に埋葬されています」

来た、思った。また肌に直接浸透してくる冷たい声。しかし昨夜の苦し気に声を振り絞るイザワとは違って心地よい女性の声である。徐々に姿が現れてくる。顔色がひどく悪いが目は濁りなく澄んでいる。ウェーブした豊かな髪が胸元まで下り、首や背は無理なく自然に伸びて姿勢がよい。何か目的が定まっていて、迷いがない印象を眉や口元に感じる。西川は胡坐に座って対面していた。風が揺らしているのか、霊が揺らしているのか分からないが窓が音を立てる。

「簡潔に。シングル・マザーのわたしが死んだので息子が児童養護施設に入りました。まだ6歳。手伝ってほしいことがあります」

「わかりました」

西川は膝に手を置いた堂々たる胡坐の姿勢のまま即答した。威圧的ではないが、断る選択を与えない切実さを持っていた。昨夜同様、霊は時間を置いて消えたり現れたりした。西川は青森の地元の川辺に少年の頃に見た、ヘイケボタルの光る間隔に似ていると思った。

「スミイサヤカと申します。息子の名前はツバサです。ツバサにわたしの想いを伝えたいのです。あなた絵を描けるんですよね? 絵を描ける人がここに住むことになったと聞きました」

「描けます」

西川は一瞬自分の中に何か退嬰的な抵抗を催し、「描けます」と言うのに無理を押し通すような勇気を必要とした。

「わたし、ツバサのことを想います。その表情を描いて息子に届けてほしい」

責任重大だな、思いながら西川は部屋の隅にあった紙袋からA3サイズのボードを取り出した。それはバイト先の文具屋で本格的な絵入りのPOPなどを頼まれた際に使う、厚みのあるケント紙で、アクリルや油の色塗りにも耐えるものだった。

西川は思い切って窓を開けた――直に女の顔を見るとそこには揺るぎない想いが現れている。大嵐の通過後もどっしり立っている大樹の不変の頑丈さがあった。例えば黄色く見えるものがあり、他の100人が「赤だよ」と言っていても、一人「いや黄色です」と平気で言い続ける強さがあった。ここにあるのは、何があってもわたしはあなたを愛している、それだけのメッセージである。ずっと、当たり前に愛している。慎重に描き始めた西川だったが途中から表現者特有の夢中の領域に入り、下絵もそこそこにアクリル画材を用意して一気に色を付けて行った。というのも、もはや下絵はいらなかった。その顔を忘れることは出来ない。疑いや推測、解釈を挟む余地がない。それで西川は少しも惑わなかった。「上手く描かなくては」という強迫も無縁だった。この領域に上手い下手は無かった。ただ「《これ》を描くんだ」という自発の思いがあった。かといってそれは写実的にただ描き移すのとはまた違った。色も違えば、輪郭や髪型すら違う形に西川は描いている、しかしそれは絵の方が正しいのだった。この顔を見て、西川が受け取り、そこに生じたものこそが描くべきものであった。「上手く」もなく、写実的でもないのに確かにその絵にはスミイサヤカが描かれていた。その女の表情にはもちろん、もっといっしょにいたかった、成長を見守りたかった、という有限の時間に閉じ込められた人間の母の悲哀もあった。が、同時に永遠性をもった神々の世界のものがあった。俺は今、女神の顔を描いている。時間を超えて愛し育む、永遠の女神の顔を。西川は背景を全く描かなかったが、何かそこに後光の気配がした。

「ありがとう。施設の名前は、稲森ひまわり園です。よろしくお願いします」

深々とお辞儀をしてスミイサヤカはもう現れなかった。対象がいなくなっても、描くべき芯を捉えていた西川は、開け放した窓から吹き込む風を受けつつ一意専心描き続けた。いつしか空の白み始めた明け方、ベランダの手すりに大胆にもハシブトガラスが止まった。西川がそちらへ鋭い一瞥を向けるとカラスは発砲でもされたかのように驚いて飛び去った。

絵は成った。描かれたスミイサヤカは澄んだ瞳に微笑んでこちらを見ている。こんな濁りの無い、本心からなる視線を西川は知らなかった。自分が頗る喜ばしい存在になったかのような気になる。根幹から存在を許され、喜ばしい者として巨きな何かに肯定されているかのような。そうしたものを、西川は自分の描いた女神から浴びた。

西川はふらりと立ち上がると、仕上がった絵を丁重に包み、徹夜の疲れによろめきながらヴィラ・カントを出た。調べてみると稲森ひまわり園へは電車とバスを乗り継ぐ必要があるらしかった。西川は移動中に首を垂らして睡眠をとった。

 

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