『墓地』2/4

枯葉が地面すれすれを転がって行く。夢中でじゃれあう猛獣の赤ん坊たちのような動き。風は線香の匂いを墓地の外まで漂わせた。

墓地を走ったスニーカーは土埃に汚れていた。空腹と渇きを催した西川は寂れた商店街を適当に歩き、コシのあるカレー・うどんを食べ、ヴィラ・カントの2階へ戻って来た。

窓から見える墓地は陽を受けて変わらず静かにじっとしている。今は穏やかというより無表情、という印象だった。京極源の墓はちょっとここからは見えない。安らぎと無縁と思われた哲学者の建物の名前は皮肉にも逆に西川を落ち着かせた。それは事実や合理的思考の頼りになる揺るぎない柱や屋根によってあやふやな物の侵襲からしっかり守ってくれる建物のようだった――何か霊的な事が起こったわけではない、カラスに威嚇されただけだという事実は彼を安堵させ、狼狽えた自分を笑った。

西川は荷物の整理作業の続きをする気になれず、試しに『僕は墓地の横に住んでいる』のネームを描いてみることにした。ノート・パソコンを床へ置き、腹這いに寝た体勢でペンタブを操った。無精ひげを撫でながら2コマほど描き出したところで、早くも彼はどうでもいいことで不安になった。まず『僕は墓地の横に住んでいる』というタイトルが関心を惹こうと媚びた感じがして気になりだした。西川は妙に求道者のような真剣さを持っていた。シンプルに『墓地の横』または『墓地』や『引越し』という題に変えようかと思った、しかし、直後にそれではあまりに地味すぎるかと不安になる。確かにタイトル等は重要なのかも知れないが、それにしても西川はいちいちこうしたことを気にしすぎる傾向があった。彼自身は気がついていないがこれは読み手や作品を意識しての逡巡というより本当のところはむしろただの自意識過剰だった。1コマ1コマにつき同じような自己疑念が湧いてくるので西川の制作は甚だしく前進に時間がかかった。しまいにはその作品を描く意味まで考え始める。本人はまるで高尚な問題に挑むかのように苦し気にしているが、実は何、ただ人からどう見られるかが怖いだけなのであった。もちろん彼にはほとばしる滝のように神秘的で清らかな創作的意欲があった。と同時に鏡の前で何時間も化粧を試みて永遠に納得しないような、何か強迫的な、しかし極めて人間的なこだわりに縛られたところがあった。それは西川の作風をあっちへこっちへ漂わせた。奇をてらったかと思えば、無難で行儀のよいものを描いたりした。そしていずれにせよ大抵突き抜けなかった。

夕刻、墓地の上をカラスが数羽旋回していた。西川はネームをやっと半ページ描いたところだった。『京極源Ⅰ』が届き、彼は休憩がてら巻頭に収録された『しゃがみ顎』を読んでいった。駅のホーム。背広を着た男が線路へ傘を落としてしまい、かがみこんだところに列車が来て頭を吹き飛ばされた。引きの画と悲鳴。毛筆で描いたような運筆の残る荒々しい絵柄は飛び散る肉片や血の表現に最適で、頗る気味悪かった。下顎だけ残った男はしゃがんだ姿勢のまま激しく転がって、この姿勢と回転の角度やスピードが何か奇跡的にこの世の仕組みの急所を突き、時空の鍵を開け、男はその姿勢のまま過去や未来、そして世界中にタイム・ワープし続けることになった。もちろん頭の吹き飛んだ彼は死んでいた。最初はただしゃがんだ下顎がワープしていた。パリの凱旋門の上から転がり落ちてきて、下を走っていた自動車に激突したりする。古代ギリシャ円盤投げ競技の、円盤の落下地点にワープして、背中に円盤がめり込んだりする。火山の噴火口にワープして、火柱といっしょに高く吹き上がった時もある。このようなことを繰り返すと遺体はどんどん損傷し、永い時間とともに粉々に朽ち果てて行った。すると人には見えない透明なしゃがみ顎となって、タイム・ワープをしつづけるようになった。自我も意識も残っていないが、男は――男の魂はこんな境遇になってしまって大層、悲しかった。ところがもう、涙を出す目がなくなってしまっているので、泣くことすらできず、舌を鞭のようにあちこち振り回して悶え苦しんだ。つまり誰にも見えない下顎だけになった男が、長い舌を暴れさせながら、しゃがんだ体勢で回転して世界中にタイム・ワープしている。こう内容だけ書くと荒唐無稽でふざけた話に聞こえてしまうかもしれないが、京極源の筆にかかると上辺だけでない、タンタロスの落ちた地獄と同様の、何か本質を掴んだリアリティーで、運命の問答無用の惨たらしさをこちらへ訴えかけてくる。読んでいると西川は背筋に悪寒を催し、ほんものの漫画、本当に表現されたものの気迫を体感していた。それはただ現実を描いたものではなく、何かその向こうの、何か遥かで巨きなものを含んだ真実を描いたものらしかった。

先ほどからいつか青黒く暗んだ窓を、風が叩いている。まるで誰かがノックしているかのような――ふと西川が見ると目を見開いた顔色の悪い男が窓に両手を当てて弱弱しく叩いていた。西川は思わず『京極源Ⅰ』をそこらへ放り投げ、反射的に飛び上がるようにして壁まで後退った。腰が抜けたようになってしまい、声も出せない。男の服はぼろぼろで、皮膚は鼠色に劣化し、頬はこけ、眼球が今にもこぼれ落ちそうなほど大きく瞼を開けている。どう見ても生身の人間ではない。

「……で、なーくて、ぎー……ふの……」

男の声は窓を貫通して、聞こえるというよりまるで水風呂に浸かった時のように西川の全身の肌に冷たく浸透して響き渡るようであった。

「そ、そこの……墓の者でなくて、岐阜、岐阜県の……墓の者なんですが……すんませんです……」

西川は震えて上下の歯ががちがちと嚙み合わさるのを制御できない。が、同時に「いったい何を言っているんだ」という言葉が頭の中に思い浮かんだ。

「ここ……この、この部屋の、この、狭い……ベランダにだけ……出現、できるです……幽霊……順番まちなんです……全国で……世界で……何か所かしか、ないです。出現できるところ……すんませんです。日本だと、ここと……留萌と……ああ、そんなこと、言ってるばあいじゃ、ねえです。時間、かぎられてるですので、あの、あっ、あー」

突然まばゆい光が男の足元から湧き起こり、とてつもない突風が後ろから吹いて男を窓に叩きつけたかのように見えた、と思うと男は忽然と消えて、ただ宵闇に吹く風に窓が小刻みに揺れているだけであった。

西川は、出来事を消化しきれないまま、震える自分の手を、他の人の手のように眺めていた。何が起こった?いま、間違いなく幽霊が出たぞ。ぜったいに幽霊だった。目の前は墓地だが、その墓地とまったく関係のない、岐阜県の幽霊が出たぞ。と、次の瞬間、再び男が窓に手をあてて目を見開いている。床の軋みのような変な音の悲鳴を上げて西川は背中を壁に思い切りぶつけた。

「お、驚かないで、どうか……驚かないで……公衆電話と同じ……同じような……方式……10円だと……あまり、しゃべれないでしょう?切れちゃうでしょう?……徳は、10円みたいな……もんですから……徳で……出現出来て……ああ、そんなこと、より、大事なことは……お、おれ、わたし、岐阜県の、美濃市の墓地に……埋葬されてる……イザワ……イザワトクノリ……です……あっ、あー」

またしても光が吹き上がって、男はどこかに消えた。西川はまっすぐ前を見たまま固まっている。瞬きもしない。喉が勝手に動き、音をたてて唾を飲み込んだ。その後も、イザワトクノリを名乗る岐阜県の墓地に埋葬されている男は何度か出現し、要約すると次のようなことを述べた。

生前、自分は、気が小さいくせに、いや、気が小さいからこそ、家庭内で威張り散らし、妻にひどい態度をとっていた。妻のことを何にも気にかけず、従わせこき使い、風邪を引いて熱があるときにすら風呂掃除から皿洗いから洗濯からぜんぶやらせた。家に金をあまり入れず、ほとんど自分でつかっていた。金がない時は妻のパート代を奪ったりもした。妻はそんな自分にぜんぜん反抗せず、ずっといっしょにいてくれた。自分は好き勝手に生きてアルコールに肝臓を患い、おととしの夏に死んだ。自分は死の間際まで、妻に何の感謝も述べないばかりか、ふてぶてしく、不遜な態度をとってしまった。申し訳ない気持ちがする。それで成仏できない。

「だから……蟹かなんか……妻に……蟹かなんかを……贈りたいです……」

男はわずかな間隔を開けながらもう10回以上出現していた。西川の身体は警戒はしつつも、制御できないほどの恐慌状態は脱していた。

「蟹を贈れば奥さん喜ぶんですか」

西川は声を振り絞った。こすれ合う木の葉の音のような声が出た。

「だって……蟹ですよ……」

「あの、蟹がいきなり死んだあなたの名前で送られてきたら、ただただわけがわからないんじゃないかな。混乱しますよ、奥さん」

「蟹……代金……立て替えて……おいて……下さい……送って…ほしい……岐阜県美濃市××××番地……曙団地B301……ユキコ……イザワユキコ宛で……お願い……します」

「手紙か何かの方がいいんじゃないですか、代筆しましょうか?」

「……いや、蟹で……もう、貯めた徳が……ありません……もう出られない……お金……あなた……」

それを最期に、男はもう出てこなかった。眠る気に到底なれなかったが、激しい神経の昂ぶりや緊張に、西川の心身はひどく消耗しており、部屋の電気を点けたまま、彼はいつか床に横向きに倒れこんで深い眠りの中に沈潜して行った。

 

『墓地』3