『墓地』1/3

ヴィラ・カントというアパートは墓地に面して建っている事情で家賃が相場よりも安かった。アルバイトをしながらweb漫画を描いている西川にとっては家賃の安いことは何よりの好条件で、墓地の傍に住むことに特に何の不快もなかった。現代の科学的な物の観方や合理的思考はむしろ幽霊さえ葬ってしまったかのようだった。漫画描きなのに自分はロマンがないな、西川は思った。

「哲学者の名前から取ったらしいですよ」

物件の下見へ行くために、西川は髪を坊主に剃ったキウイ・フルーツのような頭の形の不動産屋といっしょに都営の電車に揺られていた。

「何がですか」

「建物の名前、カント。大家さんが哲学の教授なんですよ」

「そうなんですね」

「ハイム・ヴィトゲンシュタインっていう物件もありますよ」

笑いながら不動産屋は言った。この人営業に向いてないな、西川は思った。マニアックで堅苦しい話題だったし、哲学者の名前の建物など、眉間を力んで気難しく思考するイメージが連想され、くつろぎや安らぎから通そうだった。しかし幽霊を信じない一方で、哲学者の名前の建物はくつろげないという根拠のないただの連想はしっくりくるのは不思議だと思った。もしかしたら自分は実は何も正確に考えられていないのかも知れない、西川は少し不安になった。

「次の駅です」

西川の物件を探しているのは今住んでいるアパートが道路拡張計画で取り壊しになるためだった。F駅に電車を降りた二人は北口を出、ひょろ長く伸びた坂道を降りて行った。雪でも降りそうな寒さだった。両脇に店が並んでいたが半分くらいは年季に錆びた渋い色のシャッターを下ろして閉店していた。生き残っているのはクリーニング店やコイン・ランドリーくらいしかなかった。

「近所に寮か総合病院でもあるんですか」

「そこを曲がった裏道に小さな心療内科があるくらいですね」

「へえ」

西川の相槌は自分から聞いておきながら何の関心もないかのような適当さに響いた。

坂の終盤は大きく右へくねっていて、上からは見えなかったが唐突、広い墓地が現れた。コンクリート塀に囲まれて、墓石や卒塔婆が頭を出していた。しばらく塀に沿って歩いた。寒さのあまり西川はコートのポケットの中に拳を握り、前屈みになった。

「有名な漫画家さんのお墓があるんですよ」

「誰ですか」

「誰だったかな、とにかく、大御所の部類ですよ。しゃがみ――何とか言う漫画を描いた」

「しゃがみ?」

「『しゃがみ兄』とか何とか――『くしゃみ兄』だったかな」

「聞いたことないな」

手塚治虫長谷川町子くらい大御所なはずです」

「え、そんなに」

さっぱり人気の出ないweb漫画を描いている西川は、幽霊を信じないはずの自分が、ご利益のようなものをこの大御所漫画家の霊に期待する矛盾を発見した。願望なのかな、思った。自分の願望に関わるものを都合よく信じることにしているのかな。だとしたらずいぶん雑で乱暴なことをしているな。西川はこんな風に自己批判をしがちだった。それが彼の漫画の自由で素直な発動を妨げ、かえって無難なものに縮こまらせてしまっていることには彼自身気づかずにいた。

墓地を迂回して向こう側へ回り込んだところにヴィラ・カントは建っていた。他の建物に遮られたりしておらず陽当たり良好で、見た目こぢんまりと可愛く白い壁は清潔であった。オート・ロックの入り口を入って階段を上がり案内された部屋は二階であった。まだ何の家具も置いていない六畳は、空間というよりはぺったりとした平面の印象を受けた。窓に歩み寄ると冬空の下の墓地が遠くまで広がっていた。墓地は実際こうして窓からいつも見えるとなるともしかしたらちょっと不気味かもしれなかった。しかしとりあえず初見の今は、ただ静寂を醸していて、むしろ穏やかな平和に満ちていた。夜になるとまた違う雰囲気になるのだろうか。いずれにせよ漫画のネタになるかも分からないと西川は思った。『僕は墓地の横に住んでいる』というタイトルが浮かんだ。

「いかがですか」

駅からもさほど遠くなく、良い条件の物件に違いなかった。

「ここに決めます」

西川は墓地を見下ろしたまま答えた。不意に5年前に死んだ母の姿が浮かんだ。常時何かにイラつきながら働くか家のことをするかしているだけの人だった。糸くずのように髪がやせ細って縮れていた。お互い、あまり情感の交流がなかった。お互い、何を考えているのか、分からなかった。母もこんな風に墓の中に眠っているのか。30歳を過ぎてちゃんとした(?)職を持たない自分は家族に失敗作と思われているような気がして、正月にも盆にも帰省しない西川は一度も墓参りをしていない。母は俺のことを恥じているだろうか。いい歳こいて、全然売れない漫画を描いている俺を――あれ、またしても幽霊が存在するかのような前提で考えている。

………

大きな家具をもたない西川は宅配便とレンタカーだけで引っ越しを済ませた。配達員は辛そうに顔を引きつらせながら本の詰まった重たい段ボールを何箱も運び上げてくれた。半分ほど開けて配置整理してひと段落すると残ったものは部屋の隅に寄せて後回しにし、西川は墓地を散歩してみることにした。不動産屋の言っていた大御所漫画家の墓を探してみようかと思った。といって漫画家の名前も分からないので色々な墓の間を何の気なしに歩いて行った。墓地は内見の際ヴィラ・カントの2階から見下ろした時と同様、穏やかだった。陽は高く上がってまばゆい光を墓々に注いでいた。苔を生やした古い石やなんかを眺めながら歩いていると、

《京極源の墓こちら》

という矢印付きの案内札が立っており、もしかしたらこの人かな、検索してみると、大御所や巨匠とまでは言われていないが、ホラー漫画の草分け的存在と出てきた。読み切り短篇に特化して多数のホラー漫画を描いた。手塚治虫と同じ1989年死去。代表作は『しゃがみ顎』となっている。駅のホームでかがみこみ、列車に頭を吹き飛ばされて下顎だけになった男の幽霊の話とのこと。

「ふふ、なにが『しゃがみ兄』だ、適当だな」

西川はAmazonに『しゃがみ顎』の収録された『京極源Ⅰ』を発見し、即座に購入した。驚いたことに今日の夜には届くという。いったいどういう仕組みをしているの、昨今の流通は。

京極源の墓は他の墓と比べても特別変わりなかった。外柵の囲いの中に屹立した濃い灰色の墓石で、海老せんとお花が供えてあった。西川は墓に深々と挨拶したのち、共用のバケツと柄杓を借り、水をかけたりした。知らない人の墓に挨拶し、掃除をするのは不思議な気持ちだった。

「近くのアパートに越して来ました、西川と申します。漫画を描いています――」

西川はその後を何と言ったらいいのか分からず、躊躇った。京極源の作品を読んだことがない以上、単に先輩漫画家への形式的な敬意しか伝えることが出来ない。

「作品集、買いました。あとで読ませていただきます」

結局西川はこのような言い方に結んだ。墓に話しかけている時点で、もはや完全に霊魂の存在を前提しているな、気が付いて苦笑いした。

借りたバケツ等を戻し、出口へ向かって歩いていると何か異様な感触のものを踏んだ。見ると土竜か鼠の死骸だろうか、薄ピンクの皮膚が露出しており毛がほとんどなかった。いや、もしかすると生まれて間もない犬や猫かも知れない。それとも何か他の動物の胎児か――怖ろしい連想が湧いて西川を捕らえた。土に汚れた小さな死体は口の周りに黒々と乾いた血や体液をこびりつかせ、ねじくれた腹部から内臓の連なった塊を出していた。今しがた死んだ姿とは思われない。背後でしゃがれ声の老婆の絶叫に似た、けたたましい、空間を震わせるような音がして、反射的に振り向くと墓石の上にハシブトガラスが水平に翼を広げ、嘴をこちらへ開いて鋭い目つきに威嚇していた。西川は思わずうおと声を漏らし、カラスの様子を伺いながら五、六歩後退すると、一気に走って逃げた。あいつだ、あいつの獲物だったんだ。出口まで止まらず走った。墓地は不気味な印象の場所に変わった。

 

『墓地』2