『右車線』

右車線は追い越し用の車線であるから通常車は左車線を走るよう道交法に明記されている。しかし追い越しのイメージから派生したのか、単に「スピードを出す車は右車線を走る」という曲がった理解が一般的に広まっている。

 

郁美はたいていの場合右車線を走った。

追い越しとか速度のことは彼女が右車線を走る理由ではなかった。

路上駐車の軽ワゴン、左折する車、停留所に寄るバス、

急に停まるタクシーなどが現れ、たびたび車線変更をするはめになる左車線に良い印象を持っていなかったからである。又、合流も左車線が関わることの方が多く、時に減速して合流車を入れてやったりするのが面倒だった。

思考よりも情感を性格の基盤にしたところのある郁美は、左から猛スピードで自分を抜いていった車がそういった類の障害に出くわして結局自分に追いつかれたりするのが痛快だったし、路駐で車線を塞ぐトラック等を見つけると、それを初めから見越していたように右車線を走る自分が何だか賢いような気になって浮かれたりした。

 

その日、早朝から午前いっぱいかけて或る区民ホールで開催される物産展の売り場づくりを終えた郁美は、上を陸橋が通る片側二車線の太い道路の、やはり右車線に三菱を走らせていた。イベント関連の仕事をしている彼女は次の現場へ向かいがてら食事を済ませたく、右を走りながらも目線は左側に駐車場付きの飲食店を探した。

「左走ってた方がよくないっすか」

助手席の高田が言った。太縁の眼鏡をかけた後輩の高田は若々しい豊かな毛髪を斜め後方へ固め、いかにもそつなく仕事の出来そうな風貌だった。が、見た目に反して天然なところがあり、基本的に何も考えておらず、よく遅刻や忘れ物をし、「押」と書いてあるドアを引いたり、「引」と書いてあるドアを押したり、思ったことのよしあしを判断せずそのまま口に出したりするような男であった。仕事が出来そうな見た目をしているため、高い期待をされてしまう傾向がある分、実際のところが判明すると、その落差にただ仕事が出来ない人よりもっと無能に思われたりする気の毒なところがあった。

「損するから」

高田のことを低く見ている郁美は不遜に冷たく言った。

「何ですか」

「左は、損するから」

「最初から左にいた方が、飯屋を見つけたらすぐ入れるじゃないですか?」

郁美は説明するのが面倒でシカトに封じた。

今に路駐車でも現れて高田も理解するだろう、思った。

ところが逆に、工事が行われており右車線が規制されている局面に出くわしてしまった。

右車線を選んでいたことがかえって裏目に出たことに加え、助手席の高田が「あー」と嘆息したことにいら立った郁美はラジオ局を次々に変えたりした。工事現場を抜けると彼女は早々と車線を右へ戻した。「また右に?」高田が呟いたがこれも黙殺された。

 

駐車場付の飲食店はなかなか出てこなかった。

「腹、減りましたね。あ、SEIYUがありますよ。弁当にしちゃいますか」

郁美も頗る空腹だった。しかしSEIYUは一か八か見送り、結局その次に出てきたコンビニへ寄った。左を走った方が良いという高田が正しかった形になってしまったようで、左へ車線変更する際に羞恥と敗北を感じた。車線規制の場面で右にいたことで損したうえ、そのあと再び右車線に戻った動きが、生きなかった。このままでは自分はまったく意味不明に右を走った変な奴である。羞恥のあまり、左ウィンカーを付ける動きがこぢんまりと遠慮がちだった。

 

高田は、袋入りのカルパスを2つも買って、「俺、カルパス好きなんですよね」と誰が見ても明瞭なことを言いながら、ナイロン包装を口で乱雑に剥いて次々にむさぼり食っていた。

「カルパスしか買わなかったの?」

「ビタミンマッチも買いましたよ」

サラダとおにぎりを食べながら、郁美は少しだけ逡巡した。出発したら、どちらの車線にはいろう。右――やはり右。ただ、何だろう、ちょっとだけ恥ずかしい気はする。「やっぱり右走るのか、この人」と思われる羞恥がある。

郁美は、ゆっくりと駐車場を出、挑むような気持ちで右車線に入った。高田は、何も言わず、2袋目のカルパスを開けて食べ始めていた。

 

目的地はまだずっと先で、郁美はしばらく快適に右車線を飛ばしていた。と、遠目に青っぽいトラックが、左車線に駐車して何か作業しているらしいのが見えた。「ほら」と郁美は思わず声に出しそうになった。「ほら、高田、左はこういうことが起こる」と心の中で快活に叫びながら高田を見ると、親指をミシン針のような速さに滑らせてスマートフォンに熱中していた。

「高田」

「どうしました」

高田は顔を上げないまま答えた。

「トラックが、左車線に、高田、たか――」

言っている間にトラックは後方へ通り過ぎてしまった。

「トラックが、どうしました」

「左車線に、トラックが、いた」

「それが、どうしました」

郁美はいろいろな気持ちが入り混じり、ハンドルを強く握って耐えた。高田は車線に関してどっちを走るべきかなんて特に何にも思っていないようだった。自分一人の中で勝手に右を走ることを批判されたように感じ、意地になって右を走り、左にトラックが現れて舞い上がり、高田に教えようとして気づかれずがっかりするこの一連の自分は相当な俗物に思われ、この認識はこたえた。

「あれ、何だろう、あれは?何か突き出した、ほら」

高田が指さす前方に、ひょろ長いものが蜃気楼のような微妙な動きでくねっていた。前の車との車間はかなり空いていて、郁美はある意味右車線の先頭を走っていた。前方80メートルほど、右車線の真ん中にそれは揺れていた。

タイミング悪く左車線は車が途切れず、郁美はハザードを付けて減速し、停車するはめになった。

「え、コブラ?」

揺れているのはコブラーーどう見ても蛇のコブラに間違いなかった。黒々と太い、しゃもじ型のコブラが、雑草のようにアスファルトの割れ目から長く伸びて揺らめいているのだった。

次々に後続車が並んで右車線は郁美の三菱を先頭に詰まり出した。

何か人が大声で喚いているのが外から聞こえてきた。高田が助手席の窓を開けると、左のオフィスビルの2階の窓から、ワイシャツにネクタイを緩く締めた、肌の浅黒い、キウイ・フルーツのような頭の形の男が、

「わたしですよ!わたしのせいです!」

と風や車の音に負けないよう叫んでいた。

男は右手に何か棒状のものを握ってそれを振りながら、

「わたしが、この笛を吹いたものだから、コブラが出て来てしまったんですよ!

いつもは、窓を閉めて吹いているのですが、今さっき、うっかり窓が開いているのに気づかずに演奏していたので、メロディが外に漏れて、アスファルトの割れ目から、コブラが出てしまったようなんですよ!」

高田と郁美は呆然と男を見上げたまま、「いったいあの人は何を言っているんだろう」と同時に思っていた。

「インドの……インドやなんかの、蛇使いの芸を知っているでしょう?壺からコブラを出すようなやつ、あれですよ!あれを趣味で練習しているんです!ただ、私は技術が低く、意図的に戻せないんですよ!」

「意図的に――?何ですか」

コブラを意図的に引っ込ませることが出来ないんですよ!技術が未熟で!コブラの意思で戻るまで待つしかないです!」

左車線が空くと隙を見てそちらへ渋滞した後続がなだれ込んでいき、郁美の車は身動きが取れなくなってしまった。コブラとの距離も近過ぎるので、少しバックする必要もありそうだった。

「どうしよ」

「カルパス、食いますかね」

「何が」

コブラ、カルパス食いますかね」

「意味、ないでしょ。何が目的なの」

「え」

「食うことと、引っ込むことは、関係ないでしょ」

「あ、そうか。もし食ったとしても、たぶん引っ込まないのか」

「ひき殺そうかしら」

コブラは相変わらずひも付きの風船のように軽やかにくねっていた。それは右車線を走り続けた郁美をあざ笑うかのようだった。郁美は何とも言えない鈍い疲労が肩や背中を凝り固めるのを感じた。と同時に、本人は気が付いていないが、実はこれは解放でもあった。人が変わるときというのは、往々にして、打ちのめされたり、痛い目にあったりしたときである。深刻な鬱や疲労、辛い痛みの裏側で、何か変革や解放が起こる。右車線でも左車線でも、同じことだ、どうでもいいという新しいところに郁美は変化していた。

男は相変わらず理解不能の説明を大声で続けていた。郁美は運転席側の操作で高田の開けた窓を閉めた。

「いいんですか、まだ何か言っていますが」

もう郁美の後ろの詰まりは緩く崩れ始めていた。新たに後方から来る右車線の車は距離のあるうちに次々と左へ車線変更した。郁美はわずかに三菱をバックさせ、左の車が途切れるのを待った。

(了)

令和6年2月14日